「清凉寺式釈迦」と呼ばれる独特の如来像 京都

京都の観光地、嵐山の渡月橋をまっすぐ北に歩き、突き当たった所にあるお寺

清凉寺(せいりょうじ)

そのお寺には「生身(しょうじん)のお釈迦さま」と呼ばれる本尊、釈迦如来立像が置かれている

独特の風合い

日本でよく観かける、お釈迦さま像とはちょっと違う🤔

清凉寺(せいりょうじ)

創建 896(寛平8)年
(清凉寺の前身である棲霞寺が創建)
本尊 釈迦如来立像
宗派 浄土宗
住所 京都市右京区嵯峨釈迦堂藤ノ木町46
電話 075-861-0343
拝観時間 9:00-16:00
(4.5月と10.11月は9:00-17:00)
釈迦如来立像 毎月8日に開帳
阿弥陀三尊像 霊宝館 春・秋特別公開

清凉寺が立つ地は、嵯峨天皇(786-842年)の離宮だった
この離宮を『源氏物語』の主人公・光源氏のモデルと伝えられる源融(みなもとのとおる)がもらって、別荘とした
源融が亡くなると、子どもたちが父の菩提を弔うために、父親をモデルにしたと伝わる阿弥陀三尊像を祀って寺となった

そして、宋に渡った奝念(ちょうねん)(938?-1016年)が、インドのグプタ様式の釈迦如来像を中国で造らせて持ち帰った

嵯峨の地を中国の聖山・五台山になぞらえ、ここに大伽藍を建てて、持ち帰った釈迦如来像を祀ろうと考えた

しかし、奝念(ちょうねん)はこれを果たさず亡くなったので、後に彼の弟子たちが寺内の釈迦堂に奝念(ちょうねん)が持ち帰った釈迦如来像を安置し、この堂を清凉寺とした

その後、釈迦如来の信仰が広まり、清凉寺は大いに栄えた

先の釈迦堂は二度の火災にあったが、その都度再建された

現在の建物と本尊を納める宮殿(厨子)は、第五代将軍徳川綱吉の母である桂昌院(けいしょういん)と、大阪の豪商・泉屋(後の住友)吉左エ門(きちざえもん)の寄進により、1701(元禄14)年に再建されたものである

釈迦如来立像(しゃかにょらいりゅうぞう)

国宝
木造
像高160.0㎝
中国 北宋 985年

材は赤栴檀(しゃくせんだん)
(実際は中国の桜 魏志桜桃(ぎしおうとう))
縄を渦のように巻いた頭髪
両肩をおおう衣
放物線状に密集した衣文(えもん)
2段になった裳裾(もすそ)

平安時代、東大寺の僧、奝然(ちょうねん)が35歳のとき、23歳の義蔵(ぎぞう)と誓った

京都の愛宕山(あたごやま)に、伽藍(がらん)を建て、お釈迦さまを祀(まつ)ろう

永観元年(983)、奝然は中国へ渡った

お釈迦さま(ブッダ)が生きていたころ、インドの優傎王(うでんおう)(ウダヤナ王)という国王が、お釈迦さまがいない!会いたい!と、とても悲しまれた

それを心配した臣下の者が、牛頭栴檀(ごずせんだん)という香木で等身大のお釈迦さま像を造らせた

優傎王(うでんおう)が釈迦を思って造られたので「優傎王思慕像」と呼ばれている

それは釈迦が悟りを開いた翌年、三十六歳の頃の姿とされ、「生身(しょうじん)の釈迦如来」として信仰されてきた

唐代(七世紀)にインドを訪れた玄奘三蔵(げんじょうさんぞう-西遊記の三蔵法師)が、この優傎王思慕像をまねて造らせたものを中国にもたらし、多いに信仰されたという

奝然(ちょうねん)は、その釈迦如来像を求め、揚州の開元寺に向かう

しかし、その像は都の汴京(べんけい)(現在の開封)へ移されていた

奝然は、五台山や龍門を巡礼したのち、汴京(べんけい)に行き、大蔵経(すべての経典)を皇帝よりもらった

そして、帰国する前に釈迦如来像を、宋で評判だった二人の仏師に依頼して、まねて造ってもらった

像内には、地元の尼僧たちが作った絹製の五臓六腑(ごぞうろっぷ)や、多くの人々から贈られた品々が納められた

銀の白毫(びゃくごう)(螺旋(らせん)状に巻いている長い白い毛)、耳にはめた水晶、黒うるしの瞳

像内からは、奝然と義蔵の誓いの文書や、奝然のへその緒に付された文章なども見つかった

これらの納入物は1954年の調査のときに発見された(これははすべて国宝に指定されている)

しかし、帰国した奝然は、愛宕山に伽藍を造れないまま亡くなった

弟子が愛宕山のふもとの棲霞寺(せいかじ)の釈迦堂(現在の清凉寺(せいりょうじ))に釈迦如来像を祀(まつ)った

本像はインドから中国へ、そして後に日本に伝わったことから「三国伝来の釈迦如来」とも呼ばれている

釈迦如来像が安置されてい本堂には、江戸時代に黄檗宗(おうばくしゅう)を開いた隠元禅師(いんげんぜんじ)が書いた
「栴檀瑞像」の大きな額が、かけられている

少年時代の鑑真(がんじん)は、揚州で原像を拝して出家を決心した

比叡山でまだ迷いのなかにいた法然(ほうねん)は、お釈迦さまに会うため清凉寺を訪ねた

そして「清凉寺式釈迦」と呼ばれ、まねて多く造られた

江戸時代、江戸をはじめ各地で出張公開され、人々は熱狂したという

※本像は秘仏で、ご開帳は毎月8日
毎年、4月19日には「お身拭き式」と呼ばれる本尊のすす払いと法要が営まれます

阿弥陀三尊像(あみださんぞんぞう)

国宝
平安時代896年(寛平8)
三体ともヒノキの一本造(部分的に乾漆)
像高 阿弥陀如来 178㎝
観音菩薩 166㎝
勢至菩薩 168㎝
霊宝館(春秋に特別公開)

源融(みなもとのとおる)の菩提を弔うために、子どもたちが発願し造立したもので、中央の阿弥陀如来像の容貌は、父の源融(みなもとのとおる)をモデルにしているという

脇侍(きょうじ)の観音菩薩と勢至菩薩像は、宝冠(ほうかん)や瓔珞(ようらく)などの装飾品がとても豪華
その姿は大日如来に似ている
印も金剛界大日如来の智拳印(ちけんいん)に似て、密教仏の影響を強く受けている

源融(みなもとのとおる)

822-895年。
平安時代前期の公卿
嵯峨天皇の皇子
河原院などの豪華な別荘で風流生活を送り、歌人としても知られる
源融は『源氏物語』の主人公、光源氏のモデルと伝えられる