東大寺の巨大な仏像たち

2021年12月28日

東大寺(とうだいじ)

●奈良県奈良市雑司町406-1
●大仏殿の拝観は、7時30分~17時30分(4月~10月)
         8時~17時(11月~3月)
●法華堂(三月堂)・戒壇堂の拝観は、8時30分~16時 2021
●近鉄奈良駅より、徒歩約20分

東大寺は大和国分寺として金光明寺
正式名は「金光明四天王護国之寺(こんこうみょう してんのう ごこくのてら)」

国分寺として建てられた東大寺は、国の平和と人々の幸福を祈る道場でした
そして、仏教の教えを研究し、それを学ぶ僧侶を養成する役割も持っていた

奈良時代の六宗(華厳宗(けごんしゅう)・三論宗(さんろんしゅう)・俱舎宗(くしゃしゅう)・成実宗(じょうじつしゅう)・法相宗(ほっそうしゅう)・律宗(りっしゅう))に平安時代の天台宗・真言宗も加えた研究所が設けられ、八宗兼学の学問寺でもありました

聖武天皇が創った、大きな大きな大仏さま(廬舎那仏(るしゃなぶつ))

今、私たちが観ている大仏さまは3代目

最初は平安時代の終わりに平重衡(たいらのしげひら)が、2度目は戦国時代に松永久秀(まつながひさひで)が焼いた

最初の時には、重源上人(ちょうげんしょうにん)が、焼かれてから5年もしないうちに大仏さまは再造した
その10年後には大仏殿も再建された

しかし2度目の時には、100年ほど大仏さまは雨ざらしでした

江戸時代に、公慶(こうけい)上人が、大仏さまと大仏殿の復興に立ち上がった

東大寺の大仏さまは、日本で最も有名な仏像

大仏さまは、幾たびかの苦難を乗り越えて、今も輝いています

廬舎那仏坐像(るしゃなぶつざぞう)

奈良・東大寺
国宝
銅造
像高14.98m
奈良時代~江戸時代 8~17世紀

『華厳経(けごんきょう)』に登場する廬舎那仏(るしゃなぶつ)
「光の仏」という意味で、太陽のように、この世のすべてのものに、等しく明かりと温もりをくれる

左手で宇宙の意味の智慧(ちえ)を、右手で慈悲(じひ)をあらわし、人々が思いやりの心でつながり、絆を深めることを願っている

聖武天皇の時代は、
飢饉(ききん-飢え)
大地震

多くの人たちが苦しみながら死んでいく

光明皇后(こうみょう こうごう)の間に生まれた待望の皇太子・基親王(もとい しんのう)が1歳にもならないうちに亡くなってしまった

聖武天皇の悲しみは続いた
天平元年(729)には政治的な陰謀(いんぼう)による「長屋王(ながやおう)の変」
天平9年(737)には、天然痘(てんねんとう)がはやり、政治の中心にいた藤原四兄弟(光明皇后の兄弟)をはじめ多くの人が亡くなった
続いて天平12年には光明皇后の甥(藤原広嗣(ふじわらのひろつぐ))が、大宰府(だざいふ)で反乱を起こした

苦しみぬいた末
「廬舎那仏(るしゃなぶつ)を造ろう!」

しかし、それは、途方もない時間とお金がいることも予想され、決心がつかない

聖武天皇は、天平12年(740)のある日、河内国の知識寺(ちしきじ)を訪れた

大勢の人たちが仏教の信仰のもと、小さな力をたくさん集めて造った盧舎那仏に出会った

「これだ!」

国家の大きな力ではなく、多くの富でもなく、民間の力、小さな力をたくさん集めて造る

それこそ、大仏さまは真の太陽になる

壊れかけている「日本」を再生する

聖武天皇は、旅にでた

まず東の伊勢神宮、祖先神の天照大神(あまてらすおおみかみ)に祈りをささげた
そして北へ
曽祖父の大海人皇子(おおあまのみこ)が壬申(じんしん)の乱の際に通った道である
大海人皇子は戦いに勝利して天武天皇として「日本」をつくり上げた

さらに伊賀と次々とまわり、ほぼ一周して戻ってきた聖武天皇は、山城の国(やましろのくに)の恭仁(くに)(京都府の南西端)に都を移すことにした

そして、その北東に位置する紫香楽(しがらき)(信楽)に、大仏さまを造ることにした

「仏法の力によって、動物も植物もあらゆるものが心安らかに暮らせるように」

大きな力や多くの富で造るのではなく、「一枚の草・一把(ひとにぎり)の土」
小さな力をたくさん集めて大仏を造るという聖武天皇の基本方針になった

こうして広く民衆に自発的な協力を求めた

廬舎那仏は銅で造る
そのためには、土で原型を造る
作業はまず内部の木組みから始まった
体骨柱(たいこつちゅう)(心木(しんぎ))を立てる際には、聖武天皇もみずから網を引いた

行基

同じ思いを持つ僧・行基(ぎょうき)(668~749)が、仲間とともに全面的に協力してくれた

彼は当時、各地に池や溝を掘ったり、橋を架けたりと社会事業を盛んに行っていて、民衆からのあつい信頼を得ていました
弟子たちを伴って勧進(かんじん)(布教活動)に出かけ、大仏造立は着々と進んだのです

しかし、片田舎の紫香楽に住むことを望まない勢力が放火を繰り返した
そして、地震も続いたことで、次第に人々は不安に感じ、聖武天皇は仕方なく平城京に戻った

でも、大仏さまを造ることはあきらめない

平城京の、金鐘寺(こんしゅじ)(→金光明寺(こんこうみょうじ)→東大寺)に造る決心をした

金鍾寺は「華厳経(けごんきょう)」を学ぶ拠点になっており、良弁がその中心にいた
良弁は天平字8年(764)「僧正(そうじょう)」という位が与えられた

創建時のリーダー良弁
良弁僧正坐像(ろうべん そうじょう ざぞう)


良弁 (689~773)
国宝
東大寺開山堂(かいざんどう)蔵

良弁は幼い頃に、大きな鷲(わし)にさらわれて、東大寺の杉に引っ掛かった
東大寺で養育され、立派な僧へ成長

子どもをさらわれた母親は、わが子を捜して各地を歩き回った
・・・・・
そして何十年かが過ぎ、母と子は、観音様のお導きによって、東大寺二月堂の前で会った

老いた母は「・・・・・  」
「その綿の守りは・・・もしや、この品では・・・」
良弁が身につけていた観音様の像が入った綿の守り袋は、母が持たせたものだった

天平17年(745)に平城京に遷都されると、現在地で工事を再開
翌年には、大仏の原型となる土の像が完成しました
その後、鋳型(いがた)に銅を流し込む作業が3年がかりで行われました

廬舎那仏と脇侍の菩提像、安置する大仏殿などが完成したのは、天平勝宝(てんぴょうしょうほう)3年(751)です

天平勝宝4年(752)4月9日開眼供養、出来上がった廬舎那仏に魂が入れられた

大仏造立後は、平安時代になっても、修理と造営は行われていました

斉衡(さいこう)2年(855)の大地震によって、大仏様の頭部が落下
すぐに修復されたものの、火事や落雷などが続き、講堂や西塔などが焼失、南大門や大鐘楼も倒壊したこともあった

そして、大仏完成から438年後、
治承4年(1180)の平氏の焼き討ちで、東大寺の伽藍の大半は失われた

大仏の頭と手は地に落ち、体は溶けてしまった

それを見た工人たちは、
「大仏さまを拝むことはもうない」と・・・

この時、重源(ちょうげん)が登場!

俊乗上人坐像(しゅんじょうしょうにんざぞう)
(重源像(ちょうげんぞう))

国宝
木造
彩色
像高81.8㎝
鎌倉時代
俊乗堂(しゅんじょうどう)蔵

作者は不明 慶派の一流仏師?

重源は広く寄附を募ることにした

「尺布寸鉄(しゃくふすんてつ)といえども」

端裂(はぎれ)や鉄釘一本でもいい

わずかな寄附をたくさん集めていくやり方は、
聖武天皇による大仏造立(ぞうりつ)の精神と同じだった

文治元年(1185)、完成した大仏に、再び魂を入れる開眼(かいげん)の儀式がおこなわれた

それから382年後、また大仏は焼かれた

大仏殿が焼かれたのは、永禄10年(1567)10月10日夜のことだった
松永久秀(まつながひさひで)が大仏殿に陣を構えた敵に夜襲をかけ、火をつけたからである

東大寺の人々は、戦いの中で必死の消火活動を続けたが、大仏殿は崩れ落ち、大仏は溶けて湯のように流れた

やがて大仏の胴体部は修復され、木で造って銅板を張った仮の頭部も乗せられたが、大仏殿の再建はならず、100年が過ぎた

公慶(こうけい)は立ち上がった

公慶は「一針一草(いっしんいっそう)の喜捨」と寄附(きふ)を集めた
聖武天皇の精神が、なおも受けつがれた

公慶は、聖武天皇像を造って天皇殿に安置
重源像を安置するために俊乗堂(しゅんじょうどう)を建てた

現在の大仏さまの頭は、公慶が造ったものです

元禄5年(1692)、大仏開眼の法要には、各地から人々が押し寄せた

それから13年後、公慶は、大仏殿の完成をみることなく亡くなった

10月5日のみ拝観できる仏像たち

公慶上人像(こうけいしょうにん ぞう)

毎年10月5日のみ開扉
公慶堂蔵

公慶(1648~1705)
江戸期の大仏殿の復興に生涯をかけた

公慶が13歳の時、初めて大仏を拝した
その日は雨が降っていた
大仏は、ずぶぬれ
大仏殿がなかったからです

必ず自分が、大仏殿を作ろう!

貞亭元年(1684)5月、37歳になった公慶は、
勧進活動(寄附)によって資金を集め、現在の大仏の頭部が完成した

続いて大仏殿の再建、ばくだいな資金がいる

奈良出身の僧・隆光(りゅうこう)の力添えで、将軍徳川綱吉とその母桂昌院(けいしょういん)に会うことができた
しかし、幕府が建設資金を出すことはなかった

公慶は江戸での勧進を終えると、東北から九州まで、全国各地で寄附をつのった

こうした公慶の活動が評価され、大仏殿の再建は最終的に幕府の公共事業となったが、元通りの大きさは断念した

大屋根を支える大虹梁(だいこうりょう)のために、巨木2本を九州から運びこともできた

あとは屋根を架け、瓦を乗せればいい
大仏さまの頭部が完成して、21年が過ぎていた

宝永2年(1705)6月、幕府への御礼のため、公慶は弟子の公盛(こうじょう)を連れて江戸に

18回目の江戸行きだった

公慶が江戸について間もない6月22日、桂昌院が亡くなった
桂昌院の支援がなければ、大仏殿の再建はできなかった

宝永2年(1705)7月12日、死期を悟った公慶は、公盛に遺言した
「あとは、たのんだ!
わたしの骨は奈良に葬ってくれ!」
58歳
過労死?!

公盛はこのとき17歳

当時、江戸で死んだ人は江戸に葬(ほおむ)る決まりだった
公盛は涙を流して、幕府の重臣に訴えた
僧・隆光(りゅうこう)の口添えがあり、公慶の偉大な功績も考慮して、公慶の遺骸は奈良に戻すことができた

8月11日、東大寺の北にある五劫院(ごこういん)に公慶は葬られた

大仏殿を完成させたあと、36歳で亡くなった公盛の墓もすぐ横にある

僧形八幡神坐像(ぞうぎょう はちまんしん ざぞう)

国宝
木造
像高 87.1㎝
鎌倉時代(建仁元 1201年)
毎年10月5日のみ開扉

10月5日は転害会 (てがいえ)

大仏殿の西に勧進所がある
かつて、ここに公慶の復興事務所があった
勧進所の入口は、いつもは閉ざされているが、10月5日には開かれる
勧進所の中に入り、まっすぐに進んでいくと、突き当りに八幡殿があり、このなかに僧形八幡神像(そうぎょうはちまんしんぞう)がお祀りされている

奈良時代、聖武天皇が大仏を造り始めると、九州から宇佐八幡宮の神主がやって来て、八幡神を東大寺の、守り神(鎮守)にした
これが手向山(たむけやま)八幡宮である

この鎮守は、もとは山の下にあったが、平重衡の南都焼き討ちの際に焼かれ、現在の位置、山の上に移った
この時、ご神体をどうするか、神像を造るかどうかという議論があったが、「如在」、何も造らないことになった

「如在」と書いて、「いますがごとし」と読む
神様の姿は目に見えない
しかし、いつもそこにいらっしゃると思って、そのように振る舞う
たとえご神体がなくても、神様はそこにいらっしゃるとして、心込めてご奉仕するということである

しかし、復興にあたっていた重源は、僧形八幡神像を制作した
僧侶の姿をした神様の像

八幡神は、神仏習合がもっとも進んだ神様だった

重源と親しかった仏師快慶が造った僧形八幡神像

明治初年の神仏分離の折に、僧侶の姿の神像はご神体としてふさわしくないということになって、手向山八幡宮から出されてしまい、東大寺の勧進所に移ってきた

10月5日には手向山八幡宮で転害会(てがいえ)がおこなわれる
八幡宮の境内で神事があり、そのあと東大寺の転害門に場所を移して法要をおこなう
これは八幡神が宇佐から神輿(しんよ)に乗ってやって来られた時、転害門に神輿をおろしたことに由来するそうだ

転害会には東大寺の僧侶も参加する

五劫思惟阿弥陀如来坐像(ごこう しゆい あみだ にょらい ざぞう)

重要文化財
木造
像高 106.0㎝
鎌倉時代(13世紀)
阿弥陀堂(あみだどう)蔵
毎年10月5日のみ開扉

人気者 よく出張しているとか
実際はもっと かわいい(#^^#)

阿弥陀三尊像(あみださんぞんぞう)

指図堂(さしずどう)蔵

東大寺法華堂(とうだいじ ほっけどう)の所像

不空羂索観音立像(ふくうけんじゃく かんのん りゅうぞう)

国宝
三目八臂(3つの目と8本の腕)を持つ変化観音菩薩
天平時代
脱乾漆造り
像高362.0㎝
法華堂(ほっけどう)蔵

頭部には銀製の化仏
水晶や琥珀などの宝玉がちりばめられた宝冠を被る


法華堂には、本尊の不空羂索観音像を中心に、梵天・帝釈天が両側に
前面に二体の金剛力士像が並び、東西南北を守護する四天王像が立つ
裏手には厨子に納められた秘仏・執金剛神像が祀られている
それらを合わせ十体の仏像はすべて国宝に指定されている

執金剛神立像(しゅこんごうじんりゅうぞう)

毎年12月16日のみ開扉
国宝
奈良時代
173cm
法華堂(ほっけどう)蔵

武器 金剛杵(こんごうしょ)を持つ、振り上げた右手が今にも動きだしそう
かまえた左手にも力が入り血管が浮いている

鮮やかな色が残っている
もちろん、まだらだが
カッコイイ!

東大寺ミュージアム所蔵

誕生釈迦仏立像(たんじょうしゃかぶつりゅうぞう)

国宝
像高47.5㎝
奈良時代 8世紀

東大寺ミュージアムに入って、一番最初に会う像です
手をあげ「いらっしゃい」と出迎えてくれてるようで、顔がほころぶ

お釈迦さまは、お母さんの右の脇腹から生まれた
そして、すぐに立ち上がり、7歩あるき、右手をあげて、「天上天下唯我独尊(てんじょうてんげ ゆいがどくそん)」(この世界で私だけが尊い)と言った?

お釈迦さまは、こうであってほしい、という思いが「事実」となったとか!?

お釈迦さまは4月8日生まれとされ、今も、この日は各地で「花まつり」(灌仏会(かんぶつえ))がおこなわれる
そして、お釈迦さまの像(誕生仏)に甘茶(あまちゃ)をかける

甘茶をかけるのは江戸時代になってからの作法で、古くはきれいな水をかけた
これは、お釈迦さまが生まれた時に、梵天(ぼんてん)と帝釈天(たいしゃくてん)(あるいは龍)が清らかな水を注いだという話に基づいている

仏を洗浴すると大きな功徳(くどく)があり
ほとんどの誕生仏は銅造です

この東大寺の誕生仏は、大きくて堂々としている
通常の古代の誕生仏の3倍から5倍はある

聖武天皇は、天平勝宝4年(752)4月8日に、灌仏(かんぶつ)会と、大仏に魂を入れる開眼会(かいげんえ)を合わせておこなう予定で
大きな誕生仏は造られた

魂を入れる開眼導師は、聖武天皇が務めることになっていたが、体調不良のため、インド僧の菩提僧正(ぼだいそうじょう)に代わってもらい1日遅れ
4月9日に行われた

法興寺(ほうこうじ)(飛鳥寺)に釈迦如来像が安置されたのは、推古天皇14年(606)の4月8日

聖武天皇が行基(ぎょうき)から受戒して僧になったのも4月8日

4月8日に合わせ、秘仏を拝観できる寺がある

大仏様の台座の蓮弁(れんべん)線刻画を再現したもの
釈迦如来が大勢の菩薩に説法をしている様子を描いたものだが、創建当初の大仏は、唐風のイメージが強い

日光菩薩・月光菩薩

国宝
塑像
奈良時代 8世紀

日光菩薩立像(にっこうぼさつ)

日光菩薩

衣文(えもん)が横方向に大きく波打つ
206.3㎝

月光菩薩立像(がっこうぼさつ)

月光菩薩

結び目を作りながら紐が縦方向へ垂れる
206.8㎝

塑像なのに欠けた部分も見当たらない

1300年も前にこれを造ったとは(;´∀`)完敗!

日光菩薩像と月光菩薩像は、法華堂で、本尊の不空羂索観音像(ふくうけんさく かんのん ぞう)の手前の左右に立っていた
平成23年(2011)に東大寺ミュージアムへ移された

大仏が造られる以前は、法華堂とその周辺が元々の寺院だった

不空羂索観音像と、不空羂索観音像が立つ八角二重基盤は、同じ時期に制作されたと考えられている

その八角二重基壇の下段には、7箇所の台座の跡が発見された
そこに7体の仏像が置かれていたことになる

7体とは、この日光菩薩と月光菩薩(実は、梵天と帝釈天)の両像と、現在は戒壇堂に移ってる四天王像4体、そして今も法華堂に安置している秘仏執金剛神像(しゅこんごうじんぞう)である

この7体はいずれも土で造られた塑像です

そして本尊の不空羂索観音像が加わり

観音、梵天、帝釈天、四天王、執金剛神
この組み合わせは、『金光明最勝王経』の「如意宝珠品(にょいほうじゅぼん)」に基づいているとの指摘がある
この8尊が結集して、如意宝珠神呪の力で、一切の災厄を遠ざけているという

現在、法華堂に安置されている、梵天、帝釈天は、不空羂索観音像より大きく、少しアンバランス・・・・・

金剛力士像(こんごうりきしぞう)


国宝
木造
彩色
彫眼
像高842.3㎝(右・吽形(うんぎょう))
  836.3㎝(左・阿形(あぎょう))
鎌倉時代

建仁3年(1203)に、運慶がリーダーとして手腕を発揮した東大寺南大門の仁王
筋骨隆々のたくましい姿が印象的