涅槃(ねはん)
お釈迦さまは、北インドを旅しながら仏教をひろめました
雨季には、お釈迦さまはマガダ国のビンビサーラ王にたのまれ、竹林精舎(ちくりんしょうじゃ)、コーサラ国の祇園精舎(ぎおんしょうじゃ)という修行道場(しゅぎょうどうじょう)に、とどまって説法をしました
お釈迦さまの教えは、八万四千の法蔵(はちまんしぜんのほうぞう)と言われるようにたくさんあります
80歳になり、だんだん体がおとろえていたお釈迦さまは、いつもそばにいた阿難陀(あなんだ)という弟子だけを連れて故郷をめざし、最後の布教の旅に出ました
そこでお釈迦さまは、激しい腹痛におそわれた
自分の命がそろそろつきることを感じ、クシナガラを入滅の場所に選びました
2本の沙羅(さら)の木の間に、頭を北に向け、体の右側を下にして横になりました
そして阿難陀から入滅が近いことを聞いて集まった多くの弟子や信者たとが見守るなかで、静かに息をひきとりました
35歳で悟りを得てから80歳で亡くなるまでの45年間、ずっと多くの人々に仏教を伝えたのです
お釈迦さまの死は、仏の世界に帰ったとして「入滅(にゅうめつ)」といいます
お釈迦さまは、 ご遺言をして、2月15日、80歳のご生涯を閉じられた
涅槃像でわが国最古の遺作は、法隆寺の五重塔の初階の北に面する内部に安置された群像の彫刻である
土で作った須弥山(しゅみせん)の形の間に、群像がある
中央に横たわる釈迦如来像をひときわ大きく作り、それを取り巻いて、菩薩をはじめ、大衆がいる
いずれも悲壮な表情
中には大きな口をあけて慟哭(どうこく)する比丘(びく)像
この群像を「泣き仏」と呼んでいる
この彫刻は塑像(そぞう-土を固めて作ったもの)であって、今から1250年ほど前、和銅4年(711)に作られた
お釈迦さまの入滅のシーンを像に表わした
涅槃会(ねはんえ)
2月15日各地のお寺では、お釈迦さまが亡くなった時の様子を描いた涅槃図(ねはんず)を懸けて、お釈迦さまをしのぶ
絵画の遺作で最優秀品は高野山(こうやさん)金剛峰寺(こんごうぶじ)にある
応徳三年(1086)に描いたとされる
中央に釈迦如来が右腋(みぎわき)を下にして横になり
お釈迦さまを囲うように、菩薩をはじめ弟子や信者、さらに禽獣(きんじゅう)までが集まって悲しんでいる
背景に沙羅双樹(さらそうじゅ)を描き、この双樹の木も半分は枯れ、また太陽も曇っている
上方には忉利天(とうりてん)に住する釈尊の生母、摩耶夫人(まやぶじん)が悲しみながら、下界に飛来することろが描かれている
藤原時代以降、このような涅槃像は多く制作され、涅槃会(ねはんえ)には、この画像を本尊として、各寺院で法要を行うことが年中行事となった
涅槃に入ったお釈迦さまは、多くの弟子や信者に守られて金棺(きんかん)に納められた
急いで忉利天から下りて来た、母、摩耶夫人は金棺にとりすがって悲嘆にくれた
釈尊は大神通力を発して再生し、金棺から上半身を現わして摩耶夫人のために「大摩耶経」を説いた
お釈迦さまは、再び金棺の中に自ら入られたので、弟子どもは涙をのんで、荼毘(だび)に附した
そしてその遺骨(舎利(しゃり))をそれぞれ分けあって、故郷に持ち帰り、舎利塔(しゃりとう)、すなわち卒塔婆(そとば)を作って、その中に納め、日夜これを礼拝した
その金棺から出現した光景を描いた図がある
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