お釈迦さまの出家(しゅっけ)苦行像

2021年12月4日

悩み、ふさぎこむお釈迦さま

ある日、気晴らしのためにお釈迦さまは、外出したが

東の門で見たのは、よぼよぼのおじいさん
いつかは自分も歩くこともたいへんな老人になる

南の門で見たのは、やせおとろえた病人
人はみんな病気になり痛み苦しむ

西の門では、お墓に向かうお葬式の行列
いつかは命をなくし、骨だけになる

北の門を出たとき、心の迷いのない尊い出家修行者に出会った

この 出家修行者 の、すがすがしい姿に感動したお釈迦さまは、出家の決心をした

お釈迦さまは29歳で、愛する妻ヤショーダラー(耶輸陀羅・やしょだら)と
息子ラーフラ(羅睺羅・らごら)を置いて出家の道に入ったのです

無事に出家できたお釈迦さまは、髪をそってお坊さんスタイルになりました
そして故郷から数百キロはなれたマガタ国の王舎城(おうしゃじょう)に向かいました

王舎城は5つの山にかこまれており、その一つの霊鷲山(りょうじゅせん)には多くの出家修行者がいました

ここで2人のえらい仙人 アーラーラ・カーラーマ仙とウッダカ・ラーマプッタ仙に師事し坐禅による瞑想法(めいそうほう)(深く思いをめぐらす方法)を習いました
お釈迦さまは、2人の仙人が瞑想によって達した悟りをすぐに得ました
でもお釈迦さまの悩みは解決しません

次に向かったのは、王舎城から70キロ南西のガンジス河支流・ ウルヴェーラーのナイランジヤナー河 尼連禅河のほとりにあるセーナーニ村です

ここでは、多くの修行者が肉体を苦しめることによって悟りを得ようとしていました
お釈迦さまも、苦行主義の修行に入った

想像を絶する苦行で、釈尊のひげはのび、目はくぼみ、ほおはこけ、ろっ骨はいたいたしいほどに現われ、手足は骨と皮ばかりとなった肉体は死そのものだった
こうした苦行をしているときに、コンダンニャ、バッディヤ、ワッパ、マハーナーマ、アッサジの五人の仲間ができた
しかし、肉体をいたずらに痛める苦行主義は全くムダだった
6年が過ぎ、釈尊の心は空しいだけだった

その時の姿をうつし出したのが出山釈迦像である
みすぼらしい姿に表されるもので、とぼとぼと山道を歩く姿に描かれる
この姿も、世間に数多く遺作がある

出山釈迦像 伊藤若冲

お釈迦さまは苦行を捨てて、ナイランジヤナー河で水浴して身を洗い、やせた体でウルヴェーラー村の中に入りました

そこで村の娘スジャータから乳粥(ちちがゆ)を受けた

おとろえた肉体で、ガヤーに向かって歩き、その郊外にあった一本の大きな木(菩提樹(ぼだいじゅ))の下にすわった

村の娘スジャータから乳粥を受けたお釈迦さまを見た五人の仲間たちは、「修行をすてた!」と軽蔑(けいべつ)し笑った

お釈迦様は、菩提樹の下で幾日も瞑想(めいそう)し、人生の苦悩がおこる原因について考えつづけた

修定主義や苦行主義が、釈尊の考える正しい『苦』の解決にならなかったのは、
『苦』がなぜおこるのかということを考えなかったから
ただ一時的に『苦』を忘れたり、ごまかそうとしていたから
釈尊の求めた解決は、『苦』から逃避することではない
あらゆる苦悩を乗り越えることのできる力強い積極的な生き方でありました

『四門出遊』(しもんしゅつゆう)という物語より

釈迦苦行像(しゃか くぎょう ぞう)

建長寺(けんちょうじ)神奈川県
重要文化財

法堂(はっとう)に安置されている釈迦苦行像
パキスタン北西部のガンダーラ文明ゆかりの像で、ラホール中央博物館に安置されている像をもとに制作された後、パキスタン国により建長寺に贈られた